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中国リポート

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 中国チームは現在、欧州のプロツアーを遠征中。
 男子は第3戦のフランスオープンから王励勤・馬琳・王皓・陳杞・馬龍とフルメンバーが帯同。女子は第2戦のオーストリアオープンで王楠、張怡寧が合流し、第6回城市運動会を終えたばかりの郭躍・李暁霞は休養。そして第4戦からは郭躍、李暁霞が合流し、入れ替わりに王楠、張怡寧は帰国の途に着いた。
 というわけで、中国の卓球界もしばし小休止。閑話休題の中国卓球トリビア、第2弾です。

1. 中国がこれまでに輩出した世界選手権の優勝者の数は…
 ………男子選手45人、女子選手45人でまったく同数である


★世界選手権の団体戦と個人戦で、優勝経験のある選手の総数

2. 世界卓球選手権史上、1日に最も観客が入った大会は…
 ………1961年に開催された世界選手権北京大会


★15,000人収容の北京工人体育館で観客を2回交替させ、1日に45,000人の観客が入った

3. 95年世界選手権天津大会で、馬文革や王涛、王浩は
 ………ホテルでこっそり麻雀をしていて見つかり、罰金を取られた


★しかも男子団体決勝で優勝した夜のこと。お金は賭けていなかったが、全員に5万元という重い罰金が課せられた

4. 中国卓球チームは訓練の一環として
 ………空中ブランコをやったことがある


★「空中抓杠(コンジョンジュアガン)」と呼ばれるもので、高さ8mの台の上から、1mほど先のブランコ(棒)に飛びつく。もちろん命綱はつけて行う。中国チームは精神面の強化を目的として、しばしばこのような野外訓練「拓展訓練」を実施している。

Photo:1961年の世界選手権北京大会、入場待ちの人でごった返す北京工人体育館

 11月11日から、上海市の旗忠森林テニスセンターで、テニスのマスターズカップ上海大会が開催される。2005年から上海で開催されているこのマスターズカップ、中国語では「網球大師杯賽」。筆者が05年11月に上海を訪れた時は、この大会の告知が街中至るところで見られた。最終日18日の特等席は1580元、日本円で約25,000円というから相当なプラチナチケットだ。

 選手たちは現在、続々と上海に到着して調整に入っている。「帝王」と称される世界ランキング1位のロジャー・フェデラー(スイス)もすでに上海入り。昨日、スイスのコーヒーマシン・メーカー「ジュラ」のプロモーションで記者会見を行った。その席で彼はこんな発言をしている。
 「中国との関わりは、ここ何年か上海に試合で来てるだけじゃない。僕は小さい頃、卓球が大好きだったんだよ。最終的にはテニスを選んだけどね。だから、中国の有名な卓球選手は結構知っているよ」。
 中国での会見ということで、多少のリップサービスはあるかもしれないが、実際にフェデラーの卓球の腕前はかなりのものらしい。ラリーで見せる的確な状況判断は、ワルドナー(スウェーデン)と相通じる天賦の才を感じさせるフェデラー。もし彼が卓球を選んでいたら、今ごろどうなっていただろうか?

 Photo:内容には関係ありませんが…、上海のシンボル・東方明珠電視塔(テレビタワー)。来年の北京五輪開幕式では、スイス選手団の旗手も務めるフェデラー。開会式が行われる8月8日は、奇しくも彼の誕生日なのだとか

 11月6日、湖南省の省都・長沙から車で40分ほどのところにある千龍湖旅行休暇村で、中国の少年選手6人とヨーロッパの少年選手6人、男女あわせて12人が20日間の訓練合宿に入った。コーチを務めるのは世界選手権混合ダブルス3連覇の名コンビ、王涛(八一工商銀行チーム監督)と劉偉(北大方正チーム監督)だ。

 この合同合宿は今年12月に長沙で行われるITTFチャンピオンズトーナメントに先立って行われるもの。合宿で選抜された優秀選手4名は、チャンピオンズトーナメントで世界のトップ選手と試合することができる。
 ITTFチャンピオンズトーナメントはもともと湖南衛視(テレビ)が2004年から開催していた『国球大典』が、2006年からITTFの主催事業のひとつになったもの。昨年のチャンピオンズトーナメントも湖南テレビのスタジオで行われている。もともと『国球大典』では中国と世界のトップ選手による対抗戦と、選抜トーナメントを勝ち上がった一般選手とトップ選手とのエキシビションマッチが行われていた。

 湖南テレビは中国の地方テレビ局の中でもかなり革新的なテレビ局で、この局を一躍有名にしたのが『国球大典』と同じ年にスタートした『超級女声(超女)』。中国全土を舞台にした女性歌手のオーディション番組で、2005年には50%近い視聴率をマークし、社会現象にまでなった。昨年のチャンピオンズトーナメントに出場した郭炎(中国)は、対戦した福原愛(ANA)に「『超女』はとても人気があるけれど、福原愛(フーユェン・アイ)の人気はそれ以上」と賛辞を送っている。

Photo上:昨年行われたチャンピオンズトーナメントの模様
Photo下:劉偉(左端)は現役時代、美人選手として有名でした

 中国で現在、生まれた子どもに「奥運」という名前をつける人が増えている。中国では「オリンピック」のことを「奥運会(アオユンフイ)」というので、いわば「五輪」くん、「五輪」ちゃんだ。日本でもすでに報道されているので、ご存知の方も多いかもしれない。01年に北京五輪の開催が決定してから増えはじめ、すでに全国で3491人もいる。
 その年の出来事や流行にちなんだ名前をつけるのは、中国ではよくあることで、卓球選手にもそんな人間がいる。超級リーグとブンデスリーガを股にかけて活躍する馬文革だ。彼の名前「文革(ウェンガ)」は、1966年に開始された毛沢東による「文化大革命」にちなんでつけられている。馬文革は文化大革命が開始された翌年の生まれなのだ。文化大革命が終わったあとはずいぶん肩身の狭い思いをしただろう。

 また、こちらは日本ではほとんど報道されていないが、北京五輪=「北京奥運会」の5文字すべてが、中国人の姓としてあるそうだ。意外なことに「運」さんが一番多く、中国全土に16709人もいる。
 中国には現在約4,100の姓があり、最も多い姓は「王」。なんと王さんだけで中国全土に9288万人いる。続いて2位が「李」、3位が「張」、以下「劉」「陳」「楊」…と続く。それでは、卓球選手の場合はどうなのか。これまでに世界選手権で優勝した90人の中国選手の姓名を調べてみた。
 やはり一番多いのは「王」で、男女合わせて12人。男子に至っては45人中9人で、5人に1人が王さんだ。2位は「李」の9人、同率3位が「張」と「陳」の5人、同率5位が「劉」「郭」「馬」の3人と姓氏のランキングとほぼ一致している。労力の割には平凡な結果だったようだ。

 それにしても同姓が多い中国選手。こんなセリフを紹介して締めくくろう。97年世界選手権マンチェスター大会で、ダブルス銅メダルを獲得した松下浩二/渋谷浩ペアのインタビューから(卓球王国第4号)

松下:最初に(ダブルスの)ドローを見た時、Wang/Maとしか書いてなくて、これは馬文革と馬琳、どっちの馬かなと(笑)。それで王涛/馬琳とわかって、“これはチャンス。やっぱりダブルスはついてるな”と。
(~中略)すべてはあいつ(馬琳)ですよ(笑)。作戦としては最初から最後までずっと一緒だった。馬琳に回しておけば安全だと。

 現在世界のトップランカーである馬琳も、当時はまだ17歳。カット打ちが苦手で、松下選手は天敵のような存在だった。彼にとっては若き日の苦い思い出だろう。

Photo上:王励勤、まさに「王」のなかの「王」様。女王様は王楠だ
Photo下:馬琳でラッキーとはもう言わせない?

 男女ともに中国が席巻している感のある世界の卓球界。世界選手権団体戦のチャンピオンシップディビジョン(1~24位)の中で、中国からの帰化選手がナショナルチームに所属したことのない国はごく稀だ。
 しかし、つい最近まで帰化選手を決して入れない国があった。アジアの雄・韓国だ。世界選手権のタイトル数では中国に遠く及ばないが、88年ソウル五輪優勝の劉南奎、93年世界選手権優勝の玄静和、04年アテネ五輪優勝の柳承敏らの活躍で、常に中国のライバルとして存在感を発揮。技術面でも、フットワークを駆使したパワフルな韓国卓球は、中国卓球の緻密な前陣攻守とは一線を画している。

 しかし、そんな韓国チームにも中国の波が押し寄せつつある。2004年に中国香港女子チームの郭芳芳が韓国女子チームに移籍。韓国チームにもついに中国からの帰化選手が登場した。郭芳芳は右ペンホルダー表ソフト速攻型。もともと中国・江蘇省出身の選手で、03年世界選手権パリ大会ではシングルスでベスト32に入っている。中国香港代表として国際大会に出場していて、韓国男子チームの金承煥と恋に落ち、結婚して韓国に移籍したというエピソードがある。

 さらに先日、韓国実業団リーグの大韓航空チームでプレーしていた唐娜(タン・ナ)が韓国国籍を取得した。右シェーク異質速攻型の唐娜は1979年生まれの29歳。95年に全中国ジュニア選手権で優勝しながら、当時の国家チームには王晨、朱芳、張輝ら異質速攻の選手が多く、チャンスに恵まれなかった。98年に国家チームを退いて韓国の実業団リーグに渡り、大韓航空チームのメンバーとして活躍する傍ら、超級リーグでもプレーを続けてきた。
 また、唐娜とともに大韓航空チームに在籍する中国籍の徐蕾(シュ・レイ)も韓国国籍を取得。ともに選手としての峠を過ぎている感はあるが、もし韓国女子チームに入るようなら、団体メンバーに選ばれるかもしれない。現在、韓国女子チームの主力はカットの金キョン娥と朴美英、ペン表速攻の李恩姫と郭芳芳、ペンドライブ型の文玄晶で、シェークの攻撃選手がいないからだ。

 女子チームのエース、金キョン娥は年齢的に引退が近く、05年世界選手権上海大会で「千年にひとりのペンホルダー攻撃型」と賞賛された文玄晶も、その後は伸び悩んでいる。
 もちろん、韓国にも中国のライバルとしてのプライドはあるだろう。しかし、長く中国の壁に挑み続けてきた韓国女子チームが、帰化選手中心のメンバーになる可能性もゼロとは言えない。

Photo上:05年全中国運動会で女子ダブルス2位、混合ダブルス3位の実績を持つ唐娜
Photo下:06年アジア競技大会ではシングルスでベスト8入りの郭芳芳

 団体戦の結果をお伝えしていた「中華人民共和国第6届城市運動会(第6回都市運動会)」。10月26日に卓球競技の全日程を終了し、各種目のチャンピオンが決定した。上位選手は以下のとおり。

〈男子シングルス〉
1.馬龍(成都市) 2.呉ハオ(シ博市) 3.許シン(日+斤/上海市浦東新区) 4.張継科(青島市)
〈女子シングルス〉
1.丁寧(成都市) 2.李暁霞(済南市) 3.曹臻(浜州市) 4.郭躍(瀋陽市)
〈男子ダブルス〉
1.張継科/周キン(金×3)(青島市) 2.許シン/尚坤(上海市浦東新区)
〈女子ダブルス〉
1.郭躍/侯暁旭(瀋陽市) 2.文佳/楊揚(瀋陽市)
〈混合ダブルス〉
1.劉吉康/郭躍(瀋陽市) 2.陳浩/李暁霞(済南市)

 男子シングルスは世界ランキング6位の馬龍が文句なしの優勝。大会を視察に訪れていた陸元盛・元国家女子チーム監督も「2012年ロンドン五輪では、馬龍がチームの主力選手になるだろう」と太鼓判を押した。準優勝の呉ハオは06年世界ジュニア選手権のダブルスチャンピオン。3位の許シン(左ペンドライブ型)は国家1軍チームの重点強化選手で、現世界チャンピオンの王励勤以来、上海から久々に登場した期待の選手だ。

 ハイレベルな戦いが繰り広げられた女子シングルスは波乱続出。超級リーグで今シーズン、北京首創チームの優勝に貢献した丁寧が準決勝で郭躍に4-1、決勝で李暁霞に4-2で勝利。5月の世界選手権ザグレブ大会で決勝を戦ったふたりに付け入るスキを与えず、圧巻の優勝を飾った。
 昨年のフォルクスワーゲン荻村杯で福岡春菜(中国電力)に敗れた時はまだ粗さが目立っていたが、今年に入ってからの急成長ぶりは目を見張るものがある。長身の左シェーク前陣速攻型で、身体能力の高さが光る選手だ。要所ではしゃがみ込みサービスからの速攻でポイントを稼ぐ。馬龍と同様、2012年のロンドン五輪で女子チームの主力になり得る選手だろう。

 ところで、今回の城市運動会は21歳以下の選手たちの大会にも関わらず、選手たちの「傭兵問題」が話題になっている。
 男子シングルス優勝の馬龍は遼寧省鞍山市の出身で、前回の城市運動会には北京市代表として出場し、今回は成都市(四川省)からの出場。女子シングルス優勝の丁寧も、やはり前回大会では北京市代表として出場していた。また、女子団体の地元・武漢市チームは上海市の姚彦、山西省の武楊など、ほとんどが多省出身の選手で占められている。まさに日本の国民体育大会さながらの状況だ。
 一方、人材の流失が最も甚だしいのは遼寧省で、女子団体では郭躍率いる遼寧省チームが、同じく遼寧省出身の劉詩ブン率いる広東省に優勝を阻まれるという、なんとも皮肉な結果となった。

Photo:長身で爽やかなルックスの丁寧。計り知れない可能性を秘めた選手だ
Photo:順当に優勝を決めた馬龍。こちらも将来の世界チャンピオンか

 北京オリンピックまで残すところあと9カ月あまり。前任のドマンスキ氏(スウェーデン)が突如辞任し、後任の人選が注目されていた中国女子サッカーチームの新監督に、元フランス女子代表監督のエリザベス・ロイゼル氏(女性)が決定した。
 その就任発表の記者会見の席上に、臨時で通訳を務めるひとりの中国人女性の姿があった。エリザベス・ロイゼル氏も席上で感謝の言葉を述べたその女性の名前は、王暁明。オールドファンならご記憶の方もいるかと思うが、第41回世界卓球選手権千葉大会で、フランス女子チームを3位に導いたワン・シャオミンその人だ。

 ワン・シャオミンは四川省出身で、1977年に四川省チーム入り。クレバーなシェーク前陣攻守型で、中国国内でトップクラスの実力を誇ったが、82年にフランスに渡って大学を卒業。在学中も卓球の練習を続け、フランス代表チームでも、彼女に勝てるのは男子のナショナルチャンピオンしかいなかったという。
 そして1987年、フランス国籍を取得した彼女は、フランス代表として国際大会に出場。海外に移籍した中国選手の先駆けとして、89年世界選手権ドルトムント大会でシングルスベスト8、90年ヨーロッパトップ12で3位に入るなどの成績を残した。91年世界卓球選手権千葉大会での女子チームの3位入賞は、フランス卓球史上に残る快挙と言われている。

 その後、96年アトランタ五輪を最後に現役を引退。海外とのスポーツ交流などを行うマネジメント会社を設立し、フランス・リーグ1(サッカー)のメッツと成都市サッカーチームの提携に携わるなど、両国の架け橋として活躍。今回のエリザベス・ロイゼル氏の監督就任に当たっても、フランスと中国の仲介役として中心的な役割を果たした。一方で、選手時代に彼女を取材に訪れた新聞記者と運命的な出会いをして結婚、2人の子どもに恵まれている。

 異国の地で国際交流の種を蒔き、祖国に貢献しているワン・シャオミン。彼女もまた、中国卓球史に残る女傑のひとりだろう。

Photo:91年千葉大会でのワン・シャオミン。ちょっと粗い画像でスミマセン

 世界の卓球界で中国が圧倒的な強さを見せている現在、国家チームの中で仮想選手の数は以前より少なくなっている。しかし、ビッグゲームでは必ず国家チームのビデオカメラがライバルたちをとらえ、分析と仮想選手の育成に役立てている。

 国家男子チームで、最も明確に仮想選手と呼べるのが右日本式ペンホルダードライブ型の王建軍だ。韓国やチャイニーズ・タイペイのペンホルダー、特に柳承敏の仮想選手だ。面白いことに超級リーグでは、王建軍と柳承敏は05・06年と四川全興チームのチームメイトで、本家とコピーでダブルスを組んでいる。柳承敏がふたりいるのだから強いだろうと思ったら、2シーズン通算で0勝5敗と全くダメだった。
 8月のユニバーシアード・バンコク大会に男子代表として出場した王熹は、朱世赫(韓国)の仮想選手。これまでに中国選手がたびたび痛い目にあっている相手だけに、かなり対策を練っているのだろう。

 一方、国家女子チームには、ビックリするほど福原愛(ANA)にプレーがそっくりな王シュアン(王+旋)という選手がいる。サービスの出し方、スイング、プレー中の仕草に至るまで、「顔以外は」実によく似ている。髪型やまゆ毛までコピーしている様子なのが面白い。他にも、韓国女子のエース・金キョン(王+景)娥の仮想選手である朱虹がいる。

 仮想選手たちはいずれも高い実力の持ち主だが、世界選手権の代表メンバーに入ることはまずない。そのため、海外に移籍する選手も多い。男子では成応華・黄統生がアメリカに移籍し、リ・グンサン(北朝鮮)や松下浩二(日本)の仮想選手だった陳衛星がオーストリアに移籍した。女子で現在世界ランク7位の姜華君(中国香港)も、国家チーム時代はキム・ヒョンヒなど北朝鮮の異質速攻型の仮想選手として、トップ選手のトレーナーを務めていた。
 数少ない例外として、01年世界選手権混合複チャンピオンの秦志ジェン(晋+戈)がいる。重点強化選手として男子1軍チームに入りながら、海外遠征で結果を残せずに「陪練」に格下げされ、同じ左ペンドライブ型の劉南奎(韓国)の仮想選手となった選手だ。のちにダブルスでの強さを買われて世界代表となり、01年世界選手権大阪大会で混合ダブルス優勝など、見事な成績を残している。

 選抜が繰り返される中国の選手育成システムの中で、国家チームに入れるのは何万人にひとり。「陪練」、そして仮想選手といえども、卓球界の超エリートであることは間違いない。そういった選手たちを時にはふたりも相手にして、王励勤や馬琳、張怡寧や郭躍は厳しい練習を積んでいく。中国代表を打ち破ることが、いかに難しいことなのかよくわかる。
 これからも中国にとって強敵が現れるたび、徹底した分析が行われ、無数の「名もなき英雄」が生み出されていくだろう。しかし、一人っ子政策により、これからは当然一人っ子の選手ばかりになってくる国家チーム。「小皇帝」と形容されるワガママな彼らが、陪練や仮想選手としてチームのために尽くせるのか、という気もしないではない。

Photo上:日本式ペンホルダーの王建軍。昨年の全中国選手権では準優勝だった
Photo中:フォームが福原選手とうりふたつの王セン。04年世界ジュニアでは福原選手に完敗
Photo下:現在、国家男子1軍チームのコーチである秦志ジェン。波乱万丈の競技生活を送った

 前編でお伝えした「陪練」の選手たちの中には、中国の主要なライバルとなる選手を模倣した選手が存在する。いわゆる「仮想選手」「コピー選手」と呼ばれる選手たちだ。
 仮想選手が初めて登場したのは、1960年代初頭にまでさかのぼる。仮想選手の歴史が、そのまま国家チームの歴史と言っても過言ではない。

 有名・無名と仮想選手が数多くいる中で、その初代として有名なのは、1950年代後半からプレーヤーとして活躍していた薛偉初と胡柄権だろう。
 1961年の世界選手権北京大会を前に、すでにベテラン選手だった薛偉初と胡柄権は、日本男子チームの秘密兵器「フォアドライブ」を徹底的に練習し、仮想・日本選手として荘則棟や李富栄ら若手選手の練習相手を務めた。そのため、ヨーロッパのカット選手を完璧に攻略した日本選手のドライブも、中国にはそれほどの効果を発揮し得なかった。この薛偉初と胡柄権が、中国卓球チームの初代「陪練」であり、また初代の「仮想選手」でもある。
 続いて、同じくドライブを習得した8人の選手の中から、さらに特定の日本選手をコピーした選手が登場する。木村興治の仮想選手として有名な余長春、三木圭一の仮想選手である廖文挺だ。余長春は北京大会での木村のプレーを収めたビデオを数えきれないほど観たという話が残っているが、65年世界選手権の男子ダブルスでも3位に入るほどの実力者。すでに中国卓球には、仮想選手をそれだけのレベルに育成できる力があったことになる。

 その後も、中国チームに新たなライバルが現れるたび、中国チームは若手選手の中から仮想選手を作り出してきた。79年世界選手権・男子団体決勝でハンガリーに完敗を喫すると、ハンガリーの主力選手と同じ戦型で、背格好が似ている若手選手を全国から選抜した。そしてクランパの仮想選手として成応華、ゲルゲリーの仮想選手として黄統生、ヨニエルの仮想選手として李奇を招集し、徹底的にプレーを模倣させた。その結果、81・83年と世界選手権・団体戦で中国はハンガリーを完璧に破った。

  91年の世界選手権千葉大会・女子団体決勝では、エースのトウ亜萍が右シェーク異質速攻のユ・スンボク(統一コリア)に敗れた。そこで国家チームは、同じ異質速攻型の男子選手である王志軍を河北省チームから招集し、韓国・北朝鮮に多かった異質速攻型の仮想選手として、トウ亜萍や女子チームと練習させた。この王志軍、94年にアジア競技大会で右シェーク両面裏ソフトの小山ちれが優勝すると、今度はバック面を裏ソフトに変えたというのだから徹底している。

 もちろん現在の中国チームにも仮想選手は存在する。国家隊の名もなき英雄たち-後編では、彼らの現状について紹介していこう。(本文敬称略)

Photo:中国卓球チームの虎の穴、河北省にある正定国家卓球訓練基地

 中国の国家チームは、いくつかのカテゴリーの選手たちで構成されている。
 女子チームで言えば、世界大会に出場する主力選手(張怡寧・郭躍)、経験豊富で精神的支柱となるベテラン(王楠)、今後が期待されるホープ(劉詩ブン)、もう引退が近い選手(李楠)などだ。
 そして国家チームの伝統として、このカテゴリーに含まれない、もうひとつの選手集団が存在する。「陪練(ペイリェン)」と呼ばれる、多くは無名の選手たちだ。そして実はこの「陪練」の存在が、中国卓球の強さを支えていると言っても過言ではない。無名の英雄と呼ばれる彼らのことを、少し紹介してみたい。

 国家チームにおける「陪練」というのは、分かりやすく言うと「トレーナー(練習相手)」のことだ。国家チームの集合訓練などでは、選手たちは選手同士で練習するよりも、トレーナーを相手に練習することが多い。
 たとえば男子チームのトップ選手にはふたりのトレーナーがついて、全面にフォアのパワードライブを打つ練習などを行う。女子チームのトップ選手の場合は、有望な女子の若手選手や、男子2軍チームの若手選手がトレーナーを務める。もちろん、トレーナーといっても、たとえば男子チームのトレーナーならば、世界のトップ30に入るくらいの実力は十分にある。

 トレーナーになるのはそのほとんどが若手選手。王楠がかつてトウ亜萍のトレーナーを務め、世界選手権ザグレブ大会準優勝の李暁霞が張怡寧のトレーナーを務めたように、陪練から重点強化選手に選ばれる選手も少なくない。しかし、女子選手のトレーナーに任命された男子選手は、その後1軍チームの主力として活躍するケースはほとんどない。そのままずっとトレーナーを務めるか、指導者の道を選ぶか、あるいは海外に活路を求めることになる。
 「陪練」としてチームのために尽くすことを、中国では「人梯(レンティ)」になる、という言い方をする。読んで字のごとく、「陪練」たちが組んだ梯子(ハシゴ)を踏み台にして、トップ選手たちが世界の頂点に立っていく。のちに「陪練」から昇格して、今度は陪練を踏みつけていく選手もいれば、ずっと踏まれつづけて選手生命を終える選手もいる。すべては「中国チームの勝利」のためなのだ。

 2000年シドニー五輪で金メダルを獲得した王楠は、記者会見を次のような言葉で結んでいる。「ここに来るまで私たちはとても厳しい訓練を積んできました。私は今、一緒に練習してくれた多くの仲間に感謝の言葉を言いたい。彼らは名前のないヒーローですから」。いかにも中国選手らしいアピールのように聞こえるが、かつての「陪練」としての彼女の本音なのかもしれない。
 国家隊の名もなき英雄たち-中編では、「陪練」の中でもさらに特殊な選手たち、「仮想選手」について紹介しよう。

Photo上:2人の「陪練」を相手に練習する劉国梁(2001年当時)
Photo中:同じく2001年、張怡寧の「陪練」を務めていたのは、現在世界ランク32位のヤン・ツー(シンガポール)だった。弱い選手には「陪練」は務まらないのだ
Photo下:2000年シドニー五輪で記者会見を行う3人のメダリスト